「あ、」
やらかした。
カシャン、と無慈悲な重力に抵抗できる術を知らないガラスの小瓶は床に落ちて無残にも乾いた音を立てた。それ以上に乾いた空気がすぐに漂ってくる。先ほどまで小瓶を握っていた右手が空しく、握って開いてと言い訳のように無駄に動かしてみる。しかし、心の狭い相方は冷徹な視線を注いでくる一方である。その視線を感じ背中と額に気持ちの悪い冷や汗がつたった。
小瓶の中の着色された液体が漏れて床にどんどん広がっていき、とうとう自分の靴を汚してしまう。しかし、それを気にしている場合ではなく、今は相方の相手をしなければと、イヴェールの目を見て苦笑いをした。
「お前…」
「…わ、悪い」
ブランド物だったであろう。値は張るはずだ。ビンの細工だけですら、俺でも素晴らしいと思えるほどの香水ではあったが、当然なことがら、これでは値段以前の問題にまず売りに持っていくことができない。売り物は大切にしろと、自分が不器用なことを知っていながらしつこく繰り返された相方の言葉が脳内を一瞬だけ通りすぎて、そして酷く焦ってしまった。
イヴェールは読書を放棄して、読んでいた本を閉じ音を立ててテーブルに叩きつける。その拍子にテーブルに置いてあったカップに入っているアールグレイの紅茶が少し零れてしまった。椅子から立ち上がり、床に広がった液体に、もはや靴の汚れなど気にも留めない様子で、どかどかと踏み込みこちらへと近づいてき、そして、その右手拳が強く握られているのであった。
「……っう、…」
「え?おい!」
顔面に飛んでくることを覚悟していたイヴェールの拳は、本人の小さな唸り声と共に力なく自分の左肩へと移動した。拍子抜けしていた俺の胸に、今度はイヴェールが頭を埋めてくる。それから、両手を使って俺のシャツにしっかりとしがみつき、一気に全体重をかけてこられたので、危うく後に倒れてしまうかと焦りながらも、思わず右足を一歩引いてイヴェールの身体と一緒に自分の身体を支え直した。
反射的にイヴェールの両肩に手を沿え、どうしたのか、と問うて見れば、げっそりと青ざめた顔で力なく呟いた。
「気持ち悪い…」
その時、今までイヴェールに何と叱られるかという緊張から気付かなかったのだろうか、ようやくこの部屋中が甘ったるく濃すぎる香水の匂いで満たされていることを理解した。なるほど、酔ったのだ。
鼻が曲がるかと思うほどの匂いに手で鼻を塞ごうとしたが、両手はイヴェールの両肩に添えられているので動かせず、とっさに自分の胸に埋まっている頭のつむじ目掛けて顔を押し付けた。
シャンプーの清潔な香りにようやく頭がすっきりとしてきた所で、ふいに笑いが込み上げてくる。そんなことを仕出かしたら、余計怒られそうではあったのだが、しかし今のこいつにそんな気力はないのだと、人一倍感性が敏感な相方の特色に感謝しつつ、敢えてそれを隠そうとしなかった。
「いくら酒飲んでも平気なくせにな」
「うる、さいっ…」
くつくつと一人笑っても、いつものように拳や蹴りは飛んできもせず、シャツを握り締めている相方の手に力が入っただけで、綺麗に流れる銀髪の間から可愛らしく少し顔を出している耳が真っ赤になっているのを見て、もうこのままずっと笑っていたいくらい気が高まってしまうのであった。
(この部屋だけを満たす匂いもさほど悪くない)
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翌日ぐらいにはっ倒されます。
イヴェールは根に持つぞ。