手に持っていたグラスを唇につけ傾けた。生ぬるい液体が喉を通り身体に浸透していく感覚を味わい、小さく音を立ててカウンターの上に戻した。
自分で酒にめっぽう強いことくらいの自覚はある。相方の酒癖もどうかとは思うが、気付けば自分の方がはるかに飲んでいるのだ。多分、ずっと嫌悪感しか抱けなかった父の血を継いだのだろう。反吐が出るような話だが、その血が自分の中に流れているのは事実なのである。だが、亡き父や阿呆の相方ローランサンのように、杯に理性を置き忘れてしまうような真似はしない。酒場でも紳士を保たねばならない。それが今の自分に残っている数少ないプライドのなかの一つだった。
いくら飲んでも熱くならない安酒がまだ少し残っているグラスを、揺らしたり傾けたりと手の中で弄んでいると、亭主にもう一杯進められたので、それを丁重に断る。
もう飲む気がしなかった。
グラスを口へと運ぶ右腕に精神的な重たさを感じながら、他の客の笑い声や怒鳴り声を聞く。グラスをテーブルに叩きつけ唾を飛ばしながら懸命に同席しているやつらに話しかけている、靴も服も肌も顔も髭も髪も汚く汚した男や、赤く膨れた鼻から鼻水を垂らし皺の寄った目元から涙を流し、仕切りに何かを嘆いている男。なかには、派手な、それでも質の悪い、ドレスを身にまとい、胸元を大きく開け、髪にやたらと飾り物をつけている女もいた。女の香水が安酒の匂いと交じり合いねっとりとした空気が漂っている。それが尚更、自分の気を害した。
酒は好きだが酒場は嫌いだ。だが、この酒場の酒は安いのだ。ただしそれなりの質も同時に落ちてしまうが、今の稼ぎじゃ我侭も言ってられないのである。こんな安酒でも少しの気晴らしにはなってくれるだろう。汚らしい酒場でも屋根があり、外の冷たい風から守ってくれる壁もあるのだ。きっとそれで十分なはずなのだ。
グラスの残りを飲み干し、その横に硬貨を数枚置いて、亭主と一言二言会話して席を立った。古くなった木製の床に足をつけしっかりと歩く。歩くたびにギシギシと鳴るのを聞きながらさっさと歩いて酒場から出た。
冷たい空気が頬を突き刺した。今は寒さの絶頂期だ。風もいらんばかりに、路上の埃を巻き込み吹き流れていく。コートのフードを深く被り、背中を丸めるが、それでも着ている服の布をすり抜けて入ってくる冷たい空気からは身を守れそうもない。早く宿へ帰ろうと足を急がせた。
宿へ向かう道で横目に入るのは薄い汚れた布を身にくるめ冷たい地べたに腰を据えている老婆の姿であった。心のどこかで哀れみながらも分け与える金など持ち合わせていないと目をそらし歩き続けた。
残酷ではあるが、この寒さと飢えの国に生まれてしまった以上仕方ない話なのだ。仕事のない貧民は、貴族共の歩く道に頭をつけて物乞いでもするか、それとも奪うかでもしないとその日の食にもありつけない。自尊心も何も捨てなければいけないのだ。土や木の根の味を覚えながらも、腹を満たしていかなければ次の日の太陽が拝めない。金を握る者は絶対的な安心感で日々の安定した生活を送っている。低俗な金持ちは、その様子を優越の混じった同情の瞳で眺めては、自分の地位を改めて確認し、自己満足に浸るのだ。
平等などただの幻想であり、酒に酔った調子でみる夢のようなものにしかすぎない。世界の道理には敵わない。だから自分の力で、手や身体を汚してまでも、生きていかなければならない。だから自分もこの道を踏んできたのだ。
「…あ」
「イヴェール…」
歩いていると見覚えのある顔に立ち止まれば相方だった。向こうも少し驚いた様子でこちらの名前を呼んだ。こんな所でばったり会うとは思いもしなかったのだろうが、それはお互い様だ。寒さのため向こうもコートの襟を伸ばしすっかり顔を埋めてしまっていて分かり辛かったが、乱暴に伸ばした白髪が夜の暗闇の中で目立っている。
ローランサンは少し考えて、自分の身体に染み付いた酒場の匂いを嗅ぎ当てて、眉をしかめながら言った。
「一人で飲みに行ってたのかよ…」
「お前は?女でも買いに行くのか?」
「違う!」
けらけらと笑いながらからかってやると、頭をはたかれた。その拍子に被っていたフードがはずれ、同時に吹いた風に髪がさらわれてゆく。耳と首に異様な寒気を感じ慌ててフードを被りなおし、寒いと呟くと相方はあーうーとかなんだかよくわからない唸り声を上げて目を伏せた。何しに行くんだ、と尋ねても同じような唸り声を上げるだけで曖昧な返事しかしなかった。その態度に妙に腹が立って、もう一度からかってやろうと「一人で寂しかったのか?」と言ってやると、伏せていた目を急いであげ顔を赤くして「暇だったんだよ!」と怒鳴られた。
「お前…あー…もういい……帰る」
「何しに来たんだよ」
「知るか」
「だいたい…」と、ローランサンは言いながら、今まで彼が歩いてきた反対に向きなおり自分に背を向けて「餓鬼はさっさと寝ろ阿呆が」とかそんなことをぶつぶつ呟き歩き出したので、その後を急いで追いかけ、着ているコートの後の襟を思いっきり引っ張ってやり、餓鬼じゃないと付け加える。おえ、という呻き声をあげたのを無視してその前をすたすたと歩いていく。そのすぐ後で相方の溜息と足跡を聞きながらさっさと宿に戻った。
宿主に軽くあいさつをして、それから階段をあがり戻ってきた宿の部屋の中は、風の吹き荒れる夜の町より暖かいのを感じながら、また相方に何をしに外へ出たのだと尋ねれば、結局答えずベットへ潜り込まれてしまった。しかしその様子が、太陽を目の前にした土竜の様だったので思わず吹き出し高らかに笑い声をあげた。
(多分君となら笑える)
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イヴェール視点って初めてです。わかった事。ローランサンの方が書きやすい。
盗賊イヴェの家族構成はいたって普通の家庭なイメージ。